少女が見た日本の原風景
紅葉を踏みしめるかさかさという音を聞きながら、東風谷早苗は空を見あげていた。燃えるような赤色に紅葉した葉を身にまとった木々のあいだから、透き通るような青色の空が見える。そのあいだから黒いいくつもの点が隊列をなして空を飛んでいく。かさかさという音のほかに聞こえてくる鳥の鳴き声。早苗がふと立ち止まると、妖怪の山はまるで意志を持っているかのように黙り込んでしまう。早苗は袴のすそを気にしながら、ゆっくりと膝を折ると、地面いっぱいに広がる紅葉した葉の一枚を手に取った。その子供の手のひらのような形の椛の表と裏を交互に見ていたとき、紅葉のうえを駆け抜けるとつぜんの音に驚いて、早苗はあたりを見まわしたが、何も見つけることは出来なかった。
「たぶんたぬきかきつねですね」
とつぜん聞こえてきた声に早苗はふたたび驚いて、声のした空のほうを見あげると、このあたりでもひときわ高い椛の木の太い枝に座っている射命丸文が早苗を見おろしていた。早苗は大きくひと息つき、
「驚かさないでくださいよ」と言うと、
「驚かすつもりはなかったんですよ」
そう言った文は座っていた枝から飛びおりると、早苗のすぐ隣に音もなく着地した。早苗も立ちあがり、文が視線をむけているほうにむかって目をこらしてみるが、文の言うたぬきやきつねのような動物を見つけることは出来なかった。
「ふつうのたぬきやきつねってこのあたりにもいるんですか?」
「いますよ。いまは冬眠にむけてえさを蓄えている時期ですから、けっこう近くで見られるんじゃないですかね」
早苗と文は息を殺しながらあたりを見まわした。ふたりの上空を旋回する烏の群れの声だけが妖怪の山のなかに響き渡っていた。一枚の椛の葉が風も吹いていないのに、ふと枝からはなれるとゆらりゆらりと地面に落ちていくのを早苗は横目で見ていた。
ふたたびかさかさという音が聞こえると、早苗には子供のたぬきをつれたたぬきの家族の姿がかろうじて見えた。「きのこをくわえてますね。子どものほうは木の実ですか」と文は小さな声で早苗に言う。たぬきの家族は早苗にあと五メートルくらいのところまで近づくと、気配に気づいたのかくるりと向きを変えると、駆け足で森のなかに消えていった。
「すごいですね。私、野生のたぬきをこんなに間近で見たのははじめてです」
早苗はしばらくその場に立ちつくしていた。文も早苗に付きあうように隣に立ったままだった。早苗はあたりを見まわすたびに「すごいですね」と言う。「外の世界とはそんなに違いが?」と文は手帖を開き、万年筆を持つ。
「この山には椛の木しかないようだけれど、私のいた外の世界にはほかにも紅葉する葉があって、それは銀杏を言われていました」
文が手帖に「外の世界には椛以外に紅葉する葉がある」と書いて、そこに矢印を引っ張ると、「イチョウ」と書きつけた。
「それで、それはどんな葉なんですか?」
「扇型のような形をしていて、色は緑から黄色に変わります。ですから、外の世界の山は、妖怪の山のような赤一色ではなく、赤と黄色が混ざったような色に変わります。でも、妖怪の山もとてもきれいですね。秋になるといつも赤色だけに紅葉するんですか?」
文は「イチョウ」と書きつけた場所に「扇形」「色は黄色」と書きつけながら「そうですね。私が覚えている限りはそうだったと思います」と言ったあと、早苗に「具体的にどういう形なのか書いてもらってもかまいませんか?」と訊き、その次の頁を開いて、万年筆と一緒に早苗に差しだした。早苗は手に持っていた椛の葉を懐にしまうと、手帖に銀杏の絵を描き、文に手帖と万年筆を返した。文は早苗の描いた銀杏の絵を見たあと、さきほど書きつけたメモを読み直して、ほんの少し空を見あげたあと、ためらいがちに「そういえば最近、守矢神社の神様たちは元気にしていらっしゃるでしょうか?」と早苗に尋ねた。早苗は少し考えて、「ごめんなさい。特に記事になるようなことは八坂様も洩矢様にもないかと思います」と言ったあと、微笑みながら、
「その代わりと言っては何ですが、この風景を記事にしてみたらどうでしょうか? とてもすてきな風景だと思いますよ。文さんは見慣れてしまった風景かもしれませんけれど、まだ見たことがない人はとても感動するのではないでしょうか」
文は一瞬ぽかんとすると、苦笑いを浮かべて、「考えておきます」と言って手帖を閉じた。
「今日はありがとうございました」
「いえいえ、私も貴重な外の世界のお話を聞けて、大変参考になりました」
そう言うと文の体はふわっと浮きあがり、上手に無作為に伸びた椛の枝をよけながら、上空を旋回しながら鳴き声をあげる烏の群れのところまで行き、遠くのほうへ飛んでいった。早苗はそれを見届けたあと、懐から椛の葉を取りだして、指先でくるくると椛の葉をまわした。そのとき、急に吹いた強い風が早苗の指先から椛の葉をさらっていく。がさがさがさと地面に落ちた紅葉の葉と、椛の木についた葉がこすれる音がするなか、風に吹かれてなびく髪の毛と袴を押さえながら早苗は飛ばされた椛の葉のゆくえを見ていた。椛の葉は風のなかで舞うように上空に飛ばされると、椛の木の葉のなかに紛れ込んでしまって、わからなくなる。
風がやんであたりにまた静寂が戻ったとき、早苗は椛の葉が飛んでいったほうから視線を戻すと、ゆっくりと歩き出した。